祭頭祭の歴史

祭頭祭の起源は、奈良時代とも平安時代とも言われておりますが、この祭がいつ頃から始まり、どのような由緒を持つ祭礼であるのかは、はっきりとは分かっていません。

祭頭祭は、その囃し言葉から窺えるように「五穀豊穣」「天下泰平」を主な願意とするお祭りであり、幕末の頃までは、鹿島神宮と神宮寺(じんぐうじ)という寺を中心にして行われた神仏混淆のお祭りでした。

日にちも、江戸時代までは旧暦2月15日に行われ、お釈迦様が入滅した2月15日に行われる仏教行事「常楽会(じょうらくえ)」と混合されていました。(その名残から、今でも男の子の大総督を「新発意(しぼち)」という仏教用語で呼ぶことがあります。)明治6年に太陽暦が採用されて以降、現在の3月9日に改められました。

そして明治初期に神宮寺が廃寺となり、祭の様相が現在の形へと変遷してきました。

また、祭頭祭というと『防人の祭』であるという説が現在最も有名ですが、この説の起こりは、昭和7年以降のことです。
それ以前、江戸時代などには、棒を打ち合う勇壮な囃子人について、「悪路王退治の余風」「鹿島香取の上古の神軍の様を象った様」という解釈がなされています。つまり東国から九州の防衛のために派遣された「防人」ではなく、古代の蝦夷討伐のために東北に送られた官軍を象ったものだという説が、江戸時代に発行された石井脩融著『廿八社略縁誌』、北条時鄰著『鹿島志』などの書物では紹介されています。

 


別ページリンク「江戸時代の祭頭祭」